王宮の中庭に、午後の陽光が落ちている。

 暖かい日差しはどこまでも快適だった。

 テーブルの向かいで座ったままうたた寝をする兄の、細い金糸のような髪をじっと見た。

 椅子の上で眠るその姿と、彼のいるこの中庭を思えば、わたしは息ができなくなる。

 どうしてもなくしたくない。

 日増しに強く、そう思う。

 もう残りの日も少ないこの頃では、特に。

 だから貴重なこのときを過ごすため、わたしは手に持った竪琴を軽く弾いた。
 
 



 
 

     AN NEST
 
 



 
 

 まずは調べを弾き、調子を見る。

 いつも通り、音律が少しずれている。

 それからわたしは下手な竪琴を弾く。
 

 割と広い中庭には、わたしたちの他に誰もいない。こんな日にはたいてい執事の誰かが木々の手入れをしているものだけど。長く外にいてもあれこれと注意されずにすむし、ひとまず都合はいい。

 王女たるわたしの婚礼が近くなり、王宮の空気が違っているように思える。執事も女中も兵も大臣たちも。何人かは泣いてくれた。

 宰相はいつも笑っている。縁談を取り決めたのは、後見人の彼だった。その笑い顔にはいつでもなにか嫌なものが滲んでいる。それが権力欲というものなんだろう。
 

 皆の雰囲気は変わったが、兄はふだんと変わらないように見えた。

 わたしはそれでよかった。

 できるだけ長くこの時間を過ごしていたかった。

 しかしやはり、どこかが違っていた。

 それはさながら、別離を前にした同巣の小鳥たちのように。

 でもわたしたちに親鳥はいない。

 仮即位という、名ばかりの翼しか持たない兄、それすらも無いわたし。
 
 

 相変わらず上達しないわたしの竪琴が、曲をちょうど半ばまで進んだとき、兄は目を覚ました。あたりをきょろきょろと見回し、私を目にとめると、安堵の顔になる。

 そしてわたしが弾いていることに、さもようやく今気がついたというふうに、明らかにわざとしかめ面をした。
 

「……どうしてなかなか巧くならないんだろうな」
 

 そう言う兄から、他に二、三の他愛ない小言をもらう。それを受けてわたしも真剣に、さあどうしてかな、とか答える。

 いつものことだった。
 
 

 貸してみろ、と言われて竪琴を手渡した。

 兄が調べを弾く。

 どうもこの竪琴は音階が狂いやすい、と兄。
 

「これじゃ、巧くなれるものもなれないぞ」
 

 そう言って、兄は弦を調律してくれる。

 わたしはそれを見ている。

 蒼い空はどこまでも高く、時折穏やかな風が吹いてくる。

 小鳥がわたしたちの上を飛び、輝くようにさえずった。
 
 

 彼はずいぶん苦心している様子だった。

 どうも今回は弦を少し緩めすぎたらしかった。

 竪琴にはあらぬ不名誉を着せて、いつも悪いと思っている。声には出さず竪琴に謝った。

 しかし今日は本当に、とても天気がいい。こんな日は、どこかでピクニックというものをしてみたかった。

 幼い頃から、わたしにはほとんどその種の体験がない。具体的にどんな感じなのかは思い浮かばないのだが、たまに向こうの廊下で歩いている見回りの近衛兵の目がないだけでも、それはすてきなものに違いない。
 
 

 やっとのことで直した竪琴を持ち、兄は曲を弾き始めた。

 やはりとても上手で、わたしは目を閉じてそれを聴いた。
 

「おまえは寝るなよ……」
 

 弾きながら、兄が言う。
 

「……この前だって、やっと熱が引いたんだからな」
 

 一応、わかってるよと答えた。

 実際、それでもなかなか抗いがたい誘惑ではあったけど、もちろんそんな勿体ないことはしない。

 やがて歌の旋律が弦の音色に絡む。

 割と低い彼の声が日差しに溶ける。

 しばらくそれを聴いてから、続いて私も、寄り添うように歌う。

 砂金のような時間。
 
 

 広い野原にでも行きたい。

 馬に乗って――馬車ではだめだ――この竪琴だけ持って、他に誰もいないところで、わたしが弾く。兄は下手なそれを見て、また何かわたしに言うだろう。そうして、わたしたちは歌うだろう、ふたりで。

 それが、ただ巣からこぼれ落ちるだけのことだとしても。

 歌と音色と、わたしたちと、このまますべて空にでも溶けてしまえばいいと思う。
 
 

 曲が終わった。

 わたしはもう一曲ねだろうとした。しかし兄は黙って席を外すと、そのままどこかに歩いていってしまった。

 わたしはなんとなく、そのまま中庭にいた。

 テーブルから少し離れたところに立つ木の上から、小鳥が鳴くのが聞こえた。

 その枝には、執事に頼んで取らないでもらっている、小さな巣がある。

 寄っていって、見上げた。

 未だ飛び立てない幼鳥が二羽、そこにいた。
 
 
 

 しばらく経った。

 もう陽が少し傾いていた。
 

 鳥の巣をぼうっと見ていたわたしに、ばたばたばたと足音が聞こえてきた。

 何か騒がしい。

 訝しみ、様子を見ようと立ち上がりかけた。

 するとそこに、まるで今から旅に出ようかという重厚な出で立ちの兄が駆け込んできて、わたしの前で止まった。
 

「一応訊くけど」
 

 兄は荒い息をつきながら、わたしに訊いた。
 

「馬には乗れるか?」
 

 わたしは首を横に振った。
 

「じゃあ後ろに乗って、つかまってろ」
 

 反射的に、わたしは頷いた。

 それからその言葉を飲み込んだ後、続いてもう一度、今度は大きく頷いた。

 それを見たのかどうか、兄は私の手を引き、走り出した。

 スカートが絡まり、足がもつれる。それを察したのか、彼はわたしの背中と膝の裏を持って、両手でわたしを抱きかかえると、また走った。

 目の前が滲んで見えないからちょうどよかった。
 
 
 
 
 

 そして四日後に連れ戻されるまで、わたしたちはずっと一緒にいた。
 



 
 
 
 
 
 

[戯れ言]
この話だけだと別に王子王女でなくてもいいなあ