棘でも生えてるのかというくらいに冷えた空気。
やたらと明るい満月が僕らの頭上にあり、星も見える。
こんな田舎の住宅地では今の時間なら通行人の気配は全くない。
そんな中を切々と歩く、大荷物抱えた若い男女のシルエット。
これで雪でも降ってくれば文句なしだ。
こういった道行きならあるべきなんだろう悲壮な雰囲気ってやつは、今のところ僕ら兄妹の間にはない。
僕らはパートナーであり、お互いに必要なことやそうでないこと、相手についてたくさんのことを知っている。普通の恋人たちには決してできないくらいに。
生まれたときから一緒にいられたというのは、そういう意味で僕らにとってのアドバンテージだと思うことにしている。たとえそれが原因でこうして、カケオチしなくちゃならなくなったとしても。
今みたいな状況に置かれることは僕らがこうなったときから予想しないでもなかったし、周囲の状況がこれ以外の選択肢を無くしてゆくのは自然だと感じられてたから、今更落ち込むこともないはずだ。少なくともそう考えることが、僕らにとって必要であることは間違いなかった。
こうなるとわかっていたのだから────あるいはこれを望んでいたのかもしれない。いまさらのように、そう思う。
横を歩く妹にちらりと視線を向けた。
ダウンコートの襟を立てた向こうで、短めだが柔らかそうな黒髪とコントラストをなすように、やけに白い左耳が浮かび上がっている。襟が邪魔で耳は上半分しか見えず、それが妙に気をひく。
その足取りが遅くなっているのは荷物の重さだけのせいなのか、判断するのは敢えて避けた。
歩きながら彼女の輝く左耳を見ていると、視線を感じたのかふいっと顔をこちらに向けてきた。どうしたの、とアイコンタクト。 応えて僕は言う。
「寒くないか?」
自分の耳はさっきからひどく冷たい。
「大丈夫だよ……寒いけど歩いてるから、身体動いてるし」
「まあそうだけど……」
「……だけど?」
彼女はさっきと同じことをまた眼で尋ねた。それに応える。
「やっぱ……耳当てでも用意しとけばよかったな、と思ってさ」
「ああ…………でも、わたしはそんなでもないよ?
ほら赤くなってないし」
僕の妹はそう言って、コートの襟を外側に寝かせた。
EARS
「あっ……寒っ」
「ほら」
「んー、でも耳当ては要らないよ」
「俺には、要るかな」
「そう……?」
また襟を立てて綺麗な細い首と白い耳とを隠してしまった彼女を横目に、僕は自分の耳に両手を当てた。耳骨がじいんとしみた。
冬の夜空には雲一つなく、地面は快調に放射冷却している。
手を下ろして息を吹きかけ、右に向けて言う。
「なあ、なんでショートなんだ?」
「……髪の毛のこと?」
僕の問いかけに応えて、聞き慣れた声の呟きが白い息といっしょにこちらへ吹きかけられた。
唐突な質問をすぐ理解できるのは単に、それが今までに何度となく行われたやり取りだからだ。
つまりは、こういう日常的行為で今のこの状況に慣れようとする防御行動なのかもしれなかったが、僕としてはただなんとはなしに話題を出したという意識ではあった。
「前、伸ばしてたよな」
「……ずっと前だけどね」
「ああ」
「うん……じゃあ、切ったのがいつだったかは覚えてる?」
「覚えてるよ」
髪質が素直な彼女は昔ロングにしていたが、小学校に上がって少しした頃いきなりショートに変え(それも自分一人で床屋に行って)、以来10年近くそれで通している。折角さらさらなストレートなのにと周囲の大人などは随分と残念がった。しかし普段自己主張の控えめな彼女にしては珍しく、断固としてその髪型を維持し続けた。
勘ぐった母などは、僕が妹の髪を引っ張っていじめてでもいたのではないかと考えたようだった。実際にはそういうことはなかったけれど、僕は妹とよく外へ遊びに出ていたので、母の目が届かないところは多々あった。
潔癖性気味の母にとり、汚ねえ悪ガキだった僕は「疑いの余地あり」とされたらしかった。
それで僕が問いつめられていると、彼女は泣きながら僕を庇い、違うと訴えた。
お陰で疑いは晴れたものの、そのときの必死な彼女の泣き顔は僕の胃の上あたりに焼き付いてしまった。それは今でもそのままだ。
そんなことを裏側でふっと思い返しつつ、次のせりふを口にする。
「なんで切ったんだ?」
「うん……」
切ったのは気紛れかもしれないが、決して再び伸ばそうとしない理由は誰にもわからず、僕を含めいろいろな人はショートに固執する理由を尋ねたものだ。でも彼女は曖昧な笑いを返し、そのたびにはぐらかすか、今のように口ごもってしまう。
だから僕はやはり何度となく口にした言葉を言った。
「ま、短いのも────似合うから、いいけど」
世辞でなく、それは本当にそうだった。
ことにあのときは誰も彼も長い髪が失われたことを惜しむばかりで、彼女の新しい髪型がフォローされることはなかった。それほど綺麗な髪だったということなのだろうが、ショートもよく似合っているのだということを、僕が告げてやらねばいけないと思った。
初めて言ったときはどうにも照れたものだけど、とても嬉しそうな笑顔は十分にそれを労った。そしてそれは同じことを言う度、変わらず与えられる報酬となっている。もちろん今も。
しかし不思議にも、僕にはそれがただ喜んでいるというだけでなく、その奥にほんの少し悪戯めいたものが混じっていると感じる。まあ、見ているうちにどうでもよくなってしまうが──いつも。
いつもならこれでなんとなく、自然に会話が再開され、長いのは手入れが面倒だとかシャンプーが大変とかの、極めて現実的かつ即物的な理由を並べて終わる。
しかしこの月下の逃避行なんていう場の彼女は、いつもともう少し違っていた。
寒いせいか、彼女の言葉は呟きを通り越して囁きになっていたけれど、僕は小川に流され漂う笹舟を拾いあげるようにその声を聞いた。
「あの頃、お兄ちゃんがうちに連れてきた友達」
「ああ…誰だっけ」
何人もいて特定できないし、忘れてるのも結構いる。
「うん、わたしも誰だかはよく憶えてない、けど…」
「そいつが何かしたのか?」
何気なく言ったつもりだったが声は固くなった。顔にも出ただろう。
彼女は眉を寄せて苦笑した。
「ううん違うの。ただ、言われたの」
「何を…」
「違うってば………あのね、『あんまり似てないな』って」
「似てない?」
「わたしたちが」
「ああ…」
確かに僕ら兄妹の顔はそれほど似ていない。
でもそれは性別の違うきょうだいなら珍しくもないし、気にするほど特別なことじゃない。
と、僕はそう彼女に言った。
「うん、その人も別に悪気とかなかったと思う。そうひとこと言っただけなの。
でもそのときはそんなのわからなくて、嫌だったから。
似てないって言われて、ショックだったから。
その友達とお兄ちゃんが外へ遊びに出ちゃっても、わたし、ついてけなかった」
そこで言葉を切り、俯いた。
歩きながら吐く僕らの息が白く立ち上り、散りつつも後方にたなびいてゆく。
訪れた沈黙を砕くように、冷気を押し割る。
路のアスファルトにも既にうっすらと霜が降りていた。僕と妹、両足ずつで計4種類のソールの形に押し潰された霜の列を路に残して、僕らは足を進める。
そのまま十歩も歩くと、また彼女は囁いた。
「だからお兄ちゃんとわたしの、似てるところ探したのよ」
そう言って、僕の右腕に縋るように自分の腕を絡めた。
厚手のダウンコートごしでも、その細腕と、それがかすかに震えていることとその理由、それら全てが僕にはわかった。
ガラスのような空気に、外套がこすれ合う音がきしきしと響く。
彼女が顔をまたこちらに向けるまで、歩数を数えて待つ。
5まで数えて目が合った。
どこか微笑みらしいものを浮かべてる彼女に、僕は冬の味がする空気で言葉を紡ぐ。
「で、見つけたんだな」
「うん。何処だと思う?」
当然のように肯定、そして出題。そして僕はやはり当然のように即答。
「耳」
一瞬彼女の歩みが止まり、右半身が引っ張られたがすぐ元に戻った。
「……うん、耳」
「髪型も、それで」
「……うん。
わたし耳は、お兄ちゃんと似てるから。
はっきり似てるってここだけだから、髪に隠さないで出しときたかった。
……そうすれば」
喋りながらどんどん顔を紅くしてゆく妹の、その言葉の途中で僕は右腕を引き抜き、彼女の肩を抱いた。
軽く引き寄せると、すぅと体重をいくらか預けてくる。腕の中の暖かい肢体はひどく滑らかで、かつ目を見張るほどしなやかだ。僕はそれを生まれたときから知っていたし、確かめもした。
1.5人ぶんの重みを支えながら僕は歩き続けた。
自分の左耳を手で触ってみる。この位置関係ではうまく彼女の耳は見えないから、さっきのを想像しながら。なるほど、形は似ている。特に外縁中程から耳たぶにかけて。
そんなことをしてると、いつのまにか僕を見上げていた彼女が、今までよりもさらに小声で言った。
「だからねわたし、お兄ちゃんに『似合ってる』って言われたとき、すごくすごく嬉しかったよ」
今度は僕の頬が熱くなってくる。
10年来の秘密を解放して、あのときから彼女が見せてくれてた笑顔は、いよいよ最高のものになったように見えた。今それは僕だけに向けられている。
右手で頭を撫でてやると、目元がふにゃと崩れた。
上目遣いに僕を見る妹は、その髪の長さの倍くらいには甘えた口調で、訊いた。
「…………知ってたの?」
「いいや」
「……本当?」
彼女をもうひと撫でし、そのさらさらとした手触りを確かめる。それから言った。
「……今日が冬で満月じゃなかったら……わからなかったかもな」
あしたは新しい街に着く。
たぶんここより寒いだろう。
まあ――でも、耳当ては買わないでおくとしよう。