小さな木製の扉。
 木目の上に、在室を示すプレートがある。あたしと真澄、二人お揃いの。中学校の時に工作で作ったものだった。
 あたしは在室表示のまま外出してしまうことも多かったけれど、几帳面な性格の真澄はそんなことはしなかった。だから真澄は、今、この部屋の中に居る。耳を澄ませば、扉の向こうから、真澄の鼓動が聞こえる気がする。
 プレートを見つめたまま、腕を上げかけて――刹那、止まる。
 ――もう長いこと、ノックをしたことなんてなかったな。
 ふとそんなことを思った。
 昔はそんなこと必要なかった。ずっと一緒だったから。
 何をするのも二人だった。二人で居るのが当然だった。二人は同じ存在だと思っていた。
 それが。いつのまにか。
 一人で居ることを覚えた。互いの部屋を持つようになった。
 ――互いの部屋を訪れることさえもなくなっていた。
 そしてあたしは、本当に久しぶりに――。

 トン、トン。

 この扉を叩いた。

I wish you were here

「どうぞ」
 少し低い声が聞こえた。真澄の声。
 ヴァイオリンよりはチェロに近いと思う。低いけれど、よく響く。
 あたしは右手でノブを回した。
 鍵はかかっていなかった。拍子抜けするほど簡単に、カチャっという音が響く。想像していたよりも、ずっと軽い音だった。
 一つ小さく呼吸をする。トクンと胸が静かに鳴る。
「入るよ」
 短くそう言ってドアを引いた。沈みがちな意識を引き上げるよう、声は心持ち高く明るくした。

 真澄の部屋はシンプルで飾り気がない。色彩もモノトーンの物が多く、落ち着いた雰囲気を作っている。
 そんな部屋の奥で、真澄は椅子に座ったまま、ドアの方へ振り返っていた。
 フレームレスの眼鏡の奥にある瞳は、やや吊り目がちで鋭い。色素の薄い唇と相まって、初対面の人には少し冷たい印象を与える。けれども笑うと、険が取れて柔らかい笑顔になることをあたしは知っている。
「菜摘か。珍しいな、わざわざこっちの部屋まで来るなんて」
 机の上には文庫本が置かれていた。先ほどまで読んでいたのだろう。本の中ほどから栞が顔をのぞかせている。
 真澄は無類の本好きだ。家具もあまりないこの部屋で、本棚だけが大きく場所を取っている。乱読家らしく、SFやファンタジーから、推理小説、歴史小説、恋愛小説までが並んでいる。そんな本棚でも雑然とした感じがないところが、いかにも真澄らしかった。
「なあに、まーた本読んでたの?」
 左手を腰にあてて、呆れたようにあたしは言った。真澄の顔を軽く半眼で睨みつける。
「ああ。石井敏弘の『風の魔術師』っていう推理小説だよ。菜摘も読むか?」
 そう言って表紙を人差し指でなぞった。
 どちらかといえば色白な真澄だが、指先は特に白い。その上ほっそりとして長く、女性よりもよっぽど綺麗だと思う。
 そっと撫でるような動きに、一瞬見惚れそうになった。
「遠慮しとく」
 わざとらしく顔をしかめながら、あたしは答えた。
「推理小説なんて読んでると、頭痛くなっちゃわない? あたし、そういうの苦手」
「そうか? 結構面白いけどな。昔は菜摘も本好きだったじゃないか。俺の本棚からもよく何冊か持ち出しては読んでたし」
 ほら、これとかこれ……と、本棚の前に動いて一冊一冊、背表紙を指差した。
 本当に、よくそんなことを覚えているものだと思う。でも、真澄はほんのちょっとだけ勘違いしている。
 きっとあたしは、別に本が好きだったわけじゃなかったのだ。
 ただ、真澄の真似をしていただけ。
 真澄が夢中になっていたから、あたしも同じように夢中になった。それは太陽が東から昇るのと同じくらい、あたしにとっては当然のことだった。たった一人の血をわけた兄妹なのだから。同じものを見て、同じことを感じて。全てを共有出来ると信じていた。
 結局、あたしは真澄ではなかったけれど。
 それが判る頃には、本を読む習慣もなくなっていた。
 でも。
 わざわざ本当のことを教えてあげる気なんてない。だから。
「……人は成長するものなのよ」
 明後日の方向を見てそう言った。
 そうしたら。
 真澄は一瞬の間をおいて、堰を切ったように笑い出した。
 思わず頬が赤くなるのが分かった。言わなきゃ良かったかもしれない。
 悔しいから睨みつけてみたけれど、よほどツボにはまったらしく笑い止む気配すらない。そんな真澄を見ていたら、なんだかこっちまで可笑しくなってきて、いつの間にかあたしもくすくすと笑い出していた。

 ひとしきり笑うと、不意に真顔になって真澄が言った。
「で、本当は何の用なんだ? まさかこんな無駄話をしに、わざわざ来たわけじゃないだろ?」
 こういうところ、敵わないな、と思う。
 観察眼が鋭いというか、とにかく気が回るのだ。部屋に入った時から、どこかしら普段と違う様子のあたしに、何かあると思っていたのだろう。
 あんまりにもまっすぐな聞き方も、真澄らしかった。
「ねぇ、真澄。……今ちょっと時間ある?」
「おい、本当にどうしたんだよ」
 少し苦笑いしながら真澄が聞き返す。
「改まって……相談事か?」
「相談事、かぁ……。まあ、相談事って言えなくもないかな」
 そういってあたしは右手を――真澄の部屋に入ってからずっと、体の後ろに隠していた右手を差し出した。
 手のひらには一枚の封筒。
 薄い水色の小さな封筒。


 事の起りは、今日の放課後のことだった。

 職員会議の影響で部活動がない日だということを、友人に教えてもらうまですっかり忘れていたあたしは、急に手持ち無沙汰になってしまっていた。
 さてどうしよう。たまには街まで出て、CDでも探しにいこうか。
 そんなことを考えながら帰宅の用意をしていた。といっても教科書などはいちいち持って帰らないので、たいして時間のかかることでもない。
 猫のキーホルダーがついた鞄をつかむ。
 きらりと、目の端に光が飛び込む。机の角が陽光を反射していた。
 ふと窓の外を見上げれば、雲ひとつない晴天。落ちていきそうなほどに蒼い空。
 こんな日に思いっきり走ったらきっと気持ちいいだろうな。
「……絶好の天気、だったんだけどなあ……」
 よりによって、ここ最近で一番の好天なのが恨めしい。
 なんだか無性に悔しくなって、あたしは思わず太陽を睨みつけた。

「……菜摘? 何をしているの?」
「えっ?」
 そんなタイミングで後ろから声を掛けられ、あたしはちょっと狼狽えた。
 変なところを見られたなという気恥ずかしさで、顔が熱くなる。
 それをごまかすように勢いよく振り向くと、そこに居るはずの陽だまりのような少女に言った。
「あのねぇ、ユキ。じっと見てるなんて趣味悪いんじゃない?」
 案の定、いつもと変わらぬ笑顔があった。ふわふわとした綿菓子みたいな笑顔。背中まである長い黒髪が、たおやかさを強調している。
 ユキこと由貴子はあたしの親友だ。ちょっとおっとりし過ぎじゃないかという見た目とは裏腹に、実は学年でも十指に入るほどの才媛だったりする。
 仲良くなったのも、物理の授業中に指名され、答えられずに困っていたあたしを、由貴子が横から助けてくれたことがきっかけだった。
「邪魔をしたら悪いかしら、と思って」
 由貴子が笑顔のままでそう言った。普段あまり冗談を口にしないので、こういうときにちょっと判断がつき辛い。
「それで……何が見えるの?」
 そう聞きながらわざわざあたしの隣まで歩いてきて、窓の外に視線を向けた。
 もちろん、何が見えるってわけじゃない。空はただひたすらに青くて、差し込む陽射しは瞳を焼かんばかりに眩しい。
「太陽」
「……え?」

「ふふ。菜摘らしいわね」
 帰り道。あたしの説明を聞いた由貴子が、開口一番そう言った。
「何よそれぇ。いつもあたしがそそっかしいみたいじゃない」
「違う?」
 一瞬言葉に詰まった。思い当たる節があり過ぎて、言い返せないのが悲しい。
 それを見て、由貴子がくすっと笑う。
 少し悔しいからわざと歩調を速めてみる。ああ、ごめんごめん待ってよ、なんて声が後ろから聞こえたけれど、知らないふり。
 あたしは女の子にしては身長が高く、由貴子は逆に小柄な方なので、一緒に歩くときにはちょっと注意がいる。歩幅を小さくしてないと、ついつい由貴子を置いて行ってしまうのだ。だからこうして早足になると、かなり差がつく。
 ちょっと行ったところで立ち止まって後ろを振り向いた。
 軽く息を切らして由貴子が駆け寄ってくる。
「もう、ずるい、わよ。追いつく、の、大変、なんだから」
 呼吸を整えながら、途切れ途切れにそう言った。
 ちょっと意地悪だったかな、と思わなくもなかったけれど、あたしはそれを迎え撃つようにして答えた。
「ユキがからかうからいけないんです」
 腕を組んで胸を張り、軽く目を瞑って、顔を澄ます。
 それを見た由貴子が、何よそれと言って笑った。

 そんな風に普段と変わらず、あたしと由貴子は他愛無いお喋りをしながら、帰り道を歩いた。公園通りを横切って、商店街を通り抜ける。
 やがていつもの分かれ道に出る。
 あたしは右に。由貴子は左に。
 じゃあねまたね、と手を振って背を向けた。その時。
「待って」
 由貴子の声が背中越しに聞こえた。
 なんだろうと思って振り返ると、少し傾き始めた太陽を背に、俯いた由貴子が手を差し出していた。手には、薄い水色の小さな――封筒。
 とくん。
 一瞬顔が強張るのが分かった。何故だか、いけないものを見てしまったような気がした。
「なぁに、それ? あたし、そういうシュミないよ?」
「ううん、違うの。そうじゃなくて」
 茶化すようなあたしの言葉を遮って、俯いたまま由貴子が言った。微かにいつもより早口で。視線があたしの足元の辺りをさまよう。
「あの、そうじゃなくて、これを、その、お兄さんに」
 真澄に。
 封筒を。
「本当は自分で手渡そうと思ってお兄さんの教室にも行ってみたのだけれど、どうしても恥ずかしくて渡せずなくて。下駄箱や机にそっと入れておくことも考えたのだけれど、他の人に見つかったらからかわれてしまいそうだし。だから菜摘にお願いしようと思って」
 水色の封筒。性格そのままに柔らかな文字。綾瀬真澄様。
「ラブ……レター?」
 呟くように聞いた。
 これ以上はないってくらいに、由貴子の顔が朱に染まる。
 こくん、と首を縦にふった。
「帰り道で何度か話そうと思ったのだけれど言いそびれてしまって……。でも今言わないとまた明日も同じことになってしまうから」
「そう、だったんだ。なんだ、早く言ってくれればいいのに。でも、真澄なんかのどこが良かったの?」
 考えるより先に言葉が出ていた。
「なんか、じゃないわ」
 抗議するかのように由貴子が顔をあげた。強い瞳。
 その瞳で判った。
 ああ、本当に好きなんだな、って。
 由貴子が一つ一つ、真澄のことを話してゆく。どこが好きなのか、何が愛おしいのか。そんなことを一つ一つ。
 学校の裏に住み着いた子猫たちに、放課後餌をあげていたこと。
 文化祭の後夜祭、誰もいない教室に一人、裏庭で燃える炎を見つめていた横顔。
 キッとした瞳が、ふっと和らぐ瞬間。
 聞きながらぼんやりと思う。
 由貴子と真澄。お似合いかも知れない。運動部のあたしと違って、日焼けなんて全然してない由貴子の肌は、真澄の隣でも綺麗に映えるだろう。
 あたしだったら肩を並べてしまいそうな身長も、由貴子なら丁度良いに違いない。
 鋭すぎる嫌いのある真澄と、おっとりとした由貴子。女の子のあたしから見てもかわいらしい、綿菓子みたいな笑顔。
 それは隣り合わせのジグソーパズルのように、ぴったりと当てはまる気がした。

 結局由貴子は、ひとしきり喋ると恥ずかしくなったのか、よろしくお願いねと一言残して帰って行った。
 あたしは馬鹿みたいに全部黙って聞いていたけれど、正直、何を言っていたのかは、あまり覚えていなかった。
 あたしの手の中には、水色の封筒が一つ。
 由貴子の想いの重さなのか、それはやけに重く感じた。


 真澄はあたしの右手にあるものを見て、微かに眉根を寄せた。やや困惑した表情。
 少し、胸が痛んだ、気がした。
「由貴子から」
 そう言って封筒を差し出す。
 真澄はどうすればいいのか決めかねているように、一瞬躊躇した後、それを受け取った。
 表面に書かれた、綾瀬真澄様、の文字。
 きっと何度も、何度も書き直したに違いない。その時の由貴子の姿が、まるで写真のような鮮明さで脳裏をよぎった。
「覚えてる? ほら、何回かうちにも遊びに来たことあるでしょ。背中あたりまで髪を伸ばした子」
 一応聞いてみたけれど、きっと覚えてると思う。真澄は人の名前や顔を覚えるのが得意だ。二三度会っていれば、まず忘れることはない。
 案の定、覚えてるという返答があった。
「何を気に入ったのかは知らないけど、真澄のこと好きなんだって」
 そう、告げる。
 あまりきちんと知らない人から、ある日突然好きだと告げられる気持ちはどういうものなのだろうか。経験のないあたしにはよく分からない。
 真澄の表情に変化は見られなかった。少し困惑した表情のまま。
 何を考えてるの?
 発作的に、そう聞きたい欲求に駆られた。左手で胸を押さえるようにしてこらえる。
「だから、それはラブレター。自分で渡すのが恥ずかしいからって、あたしが頼まれたの」
「そうか」
 あまり感情を感じさせない声で、真澄が答える。封筒を机の上に乗せた。落ち着いた、モノトーンに近い部屋の中で、それだけが色彩を放っている。
 そのことに、何か微かな違和感を感じる。違和感……それとも不安?
 由貴子と付き合うようになったら、この部屋の色彩も変わっていくのだろうか。
 そう考えた時にふと気付いた。真澄に彼女が居るかどうか、聞いたことなんてなかったってことに。もしかしたら、もう誰か、特別な人が居るのかもしれない。
 胸がざわめく。
「今、付き合ってる人、居るの?」
 思い切ってそう聞いてみた。
「……居ないよ。俺の周囲に女っ気を感じたことなんて、あるか?」
 それを聞いてほっとした。
 ほっと、した?
 由貴子の想いは、読まずに断られることはない。そういうことだ。ただそれだけ。
 また少し、胸が痛んだ。
 駄目。駄目だ。
 目蓋の辺りが熱くなる。
 あたしは真澄の視線を避けるように、その場でくるりと半回転をしてドアの方を向いた。顔を上向かせて、嵐のように襲ってきた、その何かを耐える。
 しっかりしなさい、綾瀬菜摘。
「判ってると思うけど」
 声が震えなかったのは奇跡だと思った。
「ちゃんと答えてあげなきゃ駄目。由貴子みたいな大人しい子が、そんな手紙を書くのにどれくらいの勇気が必要だったと思う? 付き合ってあげて欲しい、なんてことは言わないけど、いい加減な返事したら怒るからね」
 そう、由貴子はあたしの親友だから。適当になんてあしらって欲しくない。
 出来れば、由貴子が悲しむところも見たくなんてない。
 でも。
 それなら。
 この胸の痛みはなんなのだろうか。
 押し潰されそうなほど強烈な、このよく判らない感情は。

 部屋を出るまでが限界だった。
 そこから逃げるようにして自室に戻った。ドアを閉めて鍵を掛ける。
 そのまま、ベッドの上に身を投げるようにして寝転び、枕に顔を埋めた。
 くぐもった嗚咽が耳元に聞こえる。
 やっと解った。
 由貴子の告白を聞いて、どうしてあんなに胸が騒いだのか。
 渡された封筒が、どうしてあんなに重く感じたのか。
 ああ、そうだ。
 判ってしまった。気付いてしまった。
 胸の内に隠していたものを。
 自分自身にさえも嘘ついていたことを。
 どうすれば良いんだろう。
 もうきっと自分を騙せない。気付かないふりなんて出来ない。
 どうすることも出来ないのに。

「あたし、莫迦だ」

 こんなにも真澄を好きだったなんて。