大きな窓からは、空と、ずっと向こうの地平が見渡せる。
部屋の唯一の特徴といっていい。
若き歌姫サリァは、虚空を背にしてその下縁に腰掛け、ひとつ深呼吸をした。そしてゆっくりと竪琴を持ち上げる。
しっくりと手になじむ竪琴の感触は、いつも彼女に心地よい緊張をもたらす。
弦を奏でる。銀の滴のようなその音色に、彼女はそっと歌声を乗せてゆく。
石造りの床と壁に天井は、彼女が得意とする澄んだ高音を良く響かせた。
聴衆はただ一人だけ、目の前の白い長衣を羽織った青年がいた。
金髪と白皙の膚、そして僅かならぬ陰りをその奥に沈める端正な面。肘掛けつきの椅子に座り、目を閉じて彼女の歌に聴き入っている。
壁に架かった松明には火が無かった。薄闇の中、だが青年の姿は白く浮かんで見えた。今夜は満月だ。
サリァにとって、彼はあらゆる面で理想的な聴き手と言えた。
そして、彼はこの国の王だった。
両目を閉じた若い王は、だいぶ高くなった月の光を浴び、美しい彫刻のように見えた。
もし本当の石像になったら、それは彼を照らす月明かりのせいなのだろう。
そんなことをおぼろに考えつつ、サリァは塔の上につくられたこの王の部屋で、大きな窓から冴え冴えとした光が差し込む中、唄を紡いだ。
唄は『遠い邦(くに)』。
かつて在ったが滅びてしまい、今はもうない楽園の詩。
サリァにはその寂しげな旋律が、およそ生気というものが見えないこの塔の部屋に、ひどく似つかわしいと思えた。とりわけ、今夜のように月が明るいなら。
THE SONG
窓から舞い込む風に、青年王の前髪が軽く揺れた。
サリァはそれで、少なくとも彼は彫像ではないということを確認できた。
唄はもう中盤、楽園が人々の争いによって徐々に崩壊を迎え始めていた。物語の節目になったので、彼女は喉を休めるため、即興の間奏を入れた。
彼は相変わらず厳かに聴いている様子だった。
<撒王>――――彼はそう呼ばれている。
このふたつ名を知らぬものはこの国にいない。はるか他国にも、この名を聞いて身構えない将軍はなかった。
歴代の王の中でもっとも戦を好み、草木へ水をやるかの如く大地に敵の血を撒き続ける。
それがサリァの知る、そしてもっぱらの評であり、名の由来だった。事実、彼が王の座についてから、この国は昨日までに三つの国と十の小国を征服した。
彼が王となる以前、この国は乱れていた。
絶え間なく続く周辺国との小競り合いで国力は慢性的に疲弊し、それを築く政は、私欲に走る貴族たちとそれを容認する王権から成る。そういった危うさから来るざらついた空気が、国中で薄い霧のように漂っていた。
先王とその王妃は夭逝していた。その忘れ形見である幼い王子とその妹姫は、後見を僭し実権を握った宰相一派にとって、格好の傀儡であった。また特に妹姫は便利な外交上の材料ともなった。
彼ら先王の遺児は、どこからか湧いてくる分家やら妾腹やらの王子たちといつでも交換の利く偶像にすぎず、むしろ宰相たちは、思い通りにならない彼らを排除放逐する機会を常に伺っていたという。
だが彼は成人するや直ちに本即位を宣言、一つの王命を発すると、密かに準備しておいた己の勢力を引き連れて自らそれを実行した。すなわち宰相、および国の腐敗の源たる王侯貴族を粛清したのだった。
そして一通り済ませ国内が落ち着くと、彼は急速に強大な軍を整えた。
まず彼は隣国と宰相が結んだ協定を一方的に破棄、瞬く間にその城を落とした。彼の篩う卓越した手腕と優れた戦術によって、彼と彼の軍勢は他国に対し圧倒的だった。
さらに彼らはそこで留まらず、並んだ皿を金槌で順番に叩き割るようにして周辺国を陥落させていった。
そして今日、最も辺境にあった十一番目の小国が、正式にこの国の領土となった。
<撒王>の名を讃え、畏れて、朝から盛大な祭りが国中で行われた。騒がしいのが苦手なサリァは外に出なかったが、王宮内にいても伝わってくる外の喧噪は、日が暮れてもなかなか冷める様子はなく、ついさっきまで花火も上がっていた。
そんな華々しい様子と対照的に、サリァの竪琴を聴く彼は、いつものようにどこかで生気が欠けていた。無気力というのではない。例えれば、油が切れても灯り続ける不思議なランプのような。
その奇妙な印象は今だけではない、私室でも、公務中でも、彼女の褥にいるそのときですら気配があった。彼女にはその姿が、彼の成した偉業からはどうしても隔たって感じられてならなかった。
サリァには戦場での彼を見たことはない。
だから王宮に出入りする兵たちの話を聞いても、彼らの言うような鬼神のごとき王の様相を思い浮かべるのは難しかった。
だが彼女は思う――生気が無いからこそ、戦場ではそうなりうるのかもしれない、と。
しかしそんな彼でも、こうして彼女の唄をじっと聴いていたりするのだ。
ここは王宮敷地の片隅にある塔の最上階。
寝台と机椅子以外なにもない、かといって特別広いわけでもない、ごく簡素な部屋。
サリァが彼女の知人による貴族へのツテの、そのまたツテで王宮付きとして奇跡的に雇い入れられた日、つまり彼女が初めて王にまみえたそのときも、やはり彼は今と同じように白い長衣を羽織り、椅子に掛けていた。
そのときに、サリァは竪琴を賜った。
彼は、驚きからどうにか立ち返ったサリァを――まさかここが王の私室だとは思わなかったし、王に会うと聞き"謁見の間"みたいなものを想像していた彼女にとってたちの悪い悪戯だった――、そこに彼女を案内してきた中老の執事長に倣い、あわてて片膝をつこうとするのを押しとどめた。
そしてそのまま彼女をしばらく見ていた。
彼女には、彼の目と表情からはいかなるものも読みとれなかったが、ただ怖い瞳ではないと思った。それで自然と落ち着いた。すると、彼はついと立ち上がり、部屋の隅からそれを持ってきて彼女に差し出した。
何とか礼を失しないよう拝し、受け取った。
「大事にしてやってくれ」
彼はそれだけを言った。
自分のものと替えて――それなりに上等で愛着もあるものだったが、棹と腕の括り付けがどうにも甘くなってきていた――以後ずっと使っている。それなりに使い込まれていたものの、手入れはきちんとされていた。飾り気はないがよく手になじむ、良い品だった。
詩人の本分がただの建前でなく期待されたのが、彼女には嬉しかった。
その弦を弾く。
彼女の指に応え、平らな水面に美しい波紋を広げるように、竪琴は次々と澄んだ音を鳴らす。その波に己を置いて、サリァは音符を紡ぎ出し、また竪琴に伝える。
そうしながら、彼女は青年王の貌を見た。
いっそ優男と言ってもいいくらいの細面。それがかつていくさ場では、返り血で真っ赤にくまなく染まったのだという。
目を凝らせばその色が見えてくる、というわけでもないが、彼女はじっと王の横貌を見つめた。
窓から吹き込む、土と夜露の匂いが彼女らの間を通り抜けた。
特別に暑かった今日の、熱気の名残だった。
間奏は進んでゆく。
なにがしかの空隙を埋めてゆく。
それがしばらく続いたところで、王は彼女の視線に応じたかのように、口を開いた。
「……わたしは、争いごとが好きなわけじゃ……ないんだよ」
目を閉じたまま、月光のせいで石膏のように真っ白に見える貌で、戦鬼の名も轟いたる王は、呟くように言った。
「領土を広げることにも、あまり興味は無かったんだ。
皆はさすがに……そうは思わないだろうがね、」
兵士たちが聞いたなら卒倒するだろうその言に対して、しかしサリァは演奏を崩さなかった。
彼女の視線と彼の今の言葉、それにこの後に続くだろう幾たりかの言葉は、彼と彼女にいつの間にか定まったことだった。先週も同じやりとりをした。その前の週もそうだった。またその前も。だから今週も、たぶん来週もそうだろう。
彼の言葉は独り言でなく、自分に聞かせようとしているものだと彼女は知っていた。その声は、奏でる音を妨げないようにとうまく図られていたからだった。彼の声にはむしろ弦の音色に添うような、穏やかな響きがあるような気がした。
だから彼女は演奏を続けながらも、彼の言葉について思いを巡らせた。それもまた、いつものことだった。
もちろんサリァは彼が成した行いの数々を知っている。王についての話を集め詩曲をつくるのは、王宮付きの詩人としての彼女にとって義務でもあった。それに英雄、英傑の詩はどこでも歓ばれるものだ。まして、まさしく現在に生きる英雄であるところの<撒王>ならば。
しかしそれでも彼の今の言葉は、本当に心底からの言葉としか思えなかった。
最強の軍を率いる無敵の王――――難攻不落の城砦を前に、あるいは群れいる雲霞のごとき大軍に向かって、王は自ずから先立ち、矢のように単騎斬りこんでゆく。しかも多くの場合、それで見事敵将の首をあげる。兵にも国民にも、畏敬の眼差しを向けられる<撒王>。
その猛き王は、今やサリァの前にいた。
彼女の竪琴を聴いている。白い衣を満月の光に照り映えさせて。
彼はふと目を開け、しかし姿勢は変えずにまた呟いた。
「だが――結局、それしかできなかった」
そう言うと、また目を閉じた。
たったそれだけなのにサリァには、彼のつぶやきが示すなにか巨きな陰に圧されそうになった。それほどまでに存在感のある声と、言葉だった。幾度繰り返しても、いつもそう感じた。
彼の白い長衣の裾が微風に揺れる。
これは喪服なんだよ、と彼はかつて言った。
よく似合っていますよ、と以前彼女が――ちょっとばかりの冒険心で――軽口を言ってみたとき、彼はそうぽつりと応えたのだった。
喪服を着て、誰に対して喪に服すのか。死んだ者は、味方にも敵にも大勢いたのだろうけど、彼は見渡す限りの地平をその手に握った至高の王ではないか。
そう疑問に思ったこともあった。
ただ彼は、ことに彼女の唄の間は、決してその服を脱ごうとしない。
長い間奏を終え、サリァは唄を再開した。
楽園は崩れる。
人はその犠牲すらことごとく無にして、唯一の道を歩む。
それはどこまで行っても一本道で、しかも、
やがて消える。
朝方の雨にも似た竪琴の音が、サリァの歌声にくるまれ、滲みていった。
何も言わない王は、じっと動かない。普段通り何の表情もそこには現れていなかったが、ただ穏やかだった。
しかしサリァは王が決して無表情なばかりではないと知っていた。
以前、彼女はこの塔の上にある部屋のことを、なにかの鳥の巣のようだと王に言ったことがあった――無論誉め言葉だった。そのとき続けて言った、
――鳥たちにも届くように歌いますよ。
彼女のその言葉に彼は、やわらかい微笑みを見せた。
地上から離れたこの部屋の外には、すぐ空がある。
今の季節は夜風もそれほど冷たくはない。しかし窓を開け放しておいても、夜だから鳥はいない。やはり聴衆は王だけだった。
竪琴を爪弾き、息継ぎをする。月光を吸い込むように、深く。そしてまた歌う。
彼女の舞台で、サリァは彼だけのために歌った。
やがて唄が終わった。
王の前で一礼するサリァを、力がこもっているわけではないが誠意のある、一人分の拍手が出迎えた。
それも終え、彼は椅子から立ち上がった。
いつもならこれで、この一時は終わる。
だが今日は違った。
彼はサリァに歩み寄って、言った。
「ありがとう。
……いい唄だった」
そう言った王は、他に何か言いたげな、しかしそれを何かが押しとどめているような瞳で、彼女を見ていた。
また夜風が吹き込んだ。それを受け、彼の長衣が少しだけ揺れた。
その風に押されたかのように、彼はサリァの持つ竪琴に向けて、軽く右手を伸ばした。
サリァは戸惑ったが、伸ばされた手の意味は了解して、すぐに彼へと竪琴を渡した。
何か訊こうとする彼女を制して、彼は言った。
「……わたしにも演らせてくれないか。
これでも、少しはできるんだ……聴衆がいてくれないと、だめなんだが」
控えめな王の言葉に、彼女はまず驚きに打たれた。
次に畏れと、それより大きな好奇心、あるいは嬉しさが満ちる。それらを感じながら、サリァは彼に応えて言った。
私が聴き手でよろしければぜひに。
すると、彼の肩の力が、ふっと抜けたように感じた。その反応にサリァは少し考えて、ようやく理解した。彼は安堵したのだ。だが彼がそれほどに身構えてまで、しかもあんなふうに人にものを"頼む"など、彼女には半ば信じられなかった。
そんなサリァをよそに王が竪琴を奏で、朗々たる声で歌い始めたのは、先の彼女と同じ『遠い邦』だった。
職業的意識も手伝って彼女はすぐ立ち直り、王の唄を聴いた。
楽器の腕、唄ともに、かなり巧い。そこいらの酒場にいる放浪詩人のような連中よりは確実に上手だ――自分には及ばないが。彼女に備わった冷静な観察眼は、そう判じた。
だがそれと並行して、彼の唄に交じる、沁みるような痛みにも似たもの――単なる技巧の問題に留まらないそれを、彼女の感性は捉えていた。そのことは彼女に心からの感嘆を呼び、また自覚なき嫉妬すら芽生えさせかけた。
唄が終わる。
サリァは静寂の中、余韻に浸った。
だが少しすると、すっかり唄に引き込まれていたことに気がつき、サリァはあわてて夢中で手を打ちならした。
「どうもありがとう」
彼は謙遜せず、嫌みなく微笑んでそう応えた。
しかしその、滅多に見られぬ笑顔にサリァは、先ほど唄に感じた痛みが沈んでいるのを見た。
彼女は胸がひきつれるような感触を覚え、彼から目を逸らした。そしてふっと窓の外を見た。
月が明るくて、黒い地表がずっと向こうまで見渡せる。
ここから見える地平のことごとくが彼のものだ。
眼下に彼の敵たりうる者など最早ない。
だというのに。
なにがそんなに、痛いのだろう。
「争えば何かを失うのは、知っている」
ぽつりと彼が言う。
サリァが振り返ると彼もまた、窓の外を見ていた。
すでに笑顔は消し、視線を空に向けている。
サリァはおずおずと王に訊いた。
なのに――戦へ往くのですか?
不遜とは思わなかった。理由は自分でもよくわからなかったが、今は許される気がした。
王は静かに言った。
「だが争わなくても……争わないがために、なくなるものもあるんだよ」
空を見たまま、彼は続けた。
遠くの地の話をするように。
「……あいつも――鳥が好きで、よく窓から空を見ていた。
昔はおよそ外には出られなくて、わたしが竪琴を弾いたり、歌ったりしてやっていた」
彼は、手に持ったままの竪琴を適当に軽く弾いた。
不協和音。
だがそれでも、ばらばらの音でも綺麗だと、サリァは思った。
「私と、鳥に聴かせると言って、自分でも弾いて歌っていた……
巧くはなかったが、ね」
王の視線は動かない。
空では、湧きだした雲に月が隠れかけていた。
彼女は王の"喪服"について執事長に訊いてみたことがあった。本人よりは訊き易かったからだった。
隣国に嫁がされた妹姫、虚弱だった彼女のその後。話してくれた老執事は、どこかがひどく痛むような顔をして、彼女と彼女の竪琴を見つめていた。
「……あのころわたしには、どうにもできなかった。
だから……なんでもできるようになりたかった。
もう誰も手向かわないようにしたかった。
何もなくならないように」
サリァは昼間の祭りを想った。
果てしなく、広大な領土。
名声。
富。
余りあるはずのすべて。
そしてこの小さな塔の上に住む彼が、欲しかったなにか。
それだけが、もう見つからないなにか。
「……なくしたものを、探していたんだ。
遠くまで行った……」
彼は窓のそばまで歩いていった。白い長衣が歩みに合わせて衣擦れの音を立てた。
サリァはその背中を見ていた。
「……でも、わかっていたことだった。
……本当は」
窓縁に片手をつき、王は空を見上げた。
「本当は……。
空の見える窓のある部屋と、竪琴――――」
かすかに彼の肩が揺れるのを、サリァは見た。
それは風のせいではなかった。
彼は手に持ったままだった竪琴を、身を屈めて窓の下の床に置くと、そのままの姿勢で言った。
「ただ……竪琴を弾いて、唄を歌い……聴いていたかったんだ……いつでも」
ゆっくり、彼は膝をついた。
少し低くなった月が、俯いた彼を冷たく照らしていた。
彼は動かない。
月が翳る気配はなかった。
やがて、彼女は彼を月光からかばうように、そっと窓と彼との間に入った。それから跪くと、思ったよりも細身でしなやかな彼の体を、羽で触れるように抱いた。
月が沈むまでそうしていた。
"塔の上の王様"のイメージは新井昭乃さんの歌「Flower
Crown」から(ごめんなさい)。