ベッドの上にいると、カーテンの隙間から入る日光はちょうど顔のへんに射し込む。

 新しい朝が窓から部屋の中に飛び込んできていた。
くどいくらいにさわやかで明るい、そいつのおかげで今日も目が醒めた。

 背中に温かくて重たいものがくっついてる感触。世未が今朝もまた、後ろから抱きついている。……というかしがみついてる。


「……おい」

 自分の体ごと軽く揺さぶってみた。

 上にかかっていたタオルケットがずり落ちて、しなやかすぎる苗木のようなお互いの四肢が露出した。しかし他には変化無し。

 同居人であり唯一の家族とも言える彼女はその頭を僕の背に押し付けて、その細い両腕と両脚で僕に巻きついていた。そして断固として眠っている。おかげで、どうにも身動きが取れない。

「おい、世未」

 今度は名前を呼んでみた。すると後ろから、

「ん〜……」

 寝ぼけたうめき声が聞こえた。若干の効果ありとは見えたが、しかし起きる様子は無い。

 そのくせ腕を解こうとすれば、きっと強く抵抗するんだろう。ここで叩き起こせてしまえればいいのだけど、そうされると彼女はかなり怒る。無理やり解いても駄目だ──暴れる。

 特にこの前はひどかった。尤も、起こそうと揺らしたらうっかりベッドから落っことしてしまったせいでもある。とはいってもそれだって半分くらいは自分で暴れたせいなのだが、寝起きに理屈は通らない。


 ともかく世未はその一日ろくに口もきいてくれなかった。そればかりか、運悪くその日は彼女が食事当番だったため、晩ごはんはどこの保存庫から掘り出したやらわからないような得体の知れない非常食になった。こちらが何を言っても彼女は僕を睨んで『有至が悪い』としか言わなかった。でかいたんこぶをさすりながら恨みのこもった声音で名前を呼ばれるとこちらが悪かったような気がしてきて、しかたなく味の無いタブレットみたいな代物を水で無理やり飲み込んで、もう彼女の眠りは妨げまいと誓ったものだ。

 せっかくの朝にそんな危険を犯したくはないから、実力行使は妥当にあきらめた。まずなんとか絡んでいる脚を解く。そうしたらその脚を使い、寝たままずりずりと足元のほうに身をずらせて、彼女の腕から僕の胴体、そして頭を抜く。起こさないまま脱出するにはこれが最良だ。

 移動をするにしたがって、背中に当たる、小さくはあるが柔らかい胸とその尖端の感触も移動してゆく。不用意に動くとまた暴れるので、あくまで慎重に。

 途中で眩しいものがちかりと眼をよぎった。ベッド脇のサイドボードの上で何か光っている。

 それが何かは知っていた。

 くすんだ色合いのプラスチックでできた天板の上には、耳かきやら読みかけの文庫本やらといった雑多なものに交じって、よく手入れされたステンレスのはさみが置いてあった。陽が照り返して銀色に光り、はさみの刃の形をした細長いスポットを天井へ映し出していた。

 そこを横切るに眩しいのは目を閉じてやり過ごし、ベッドの足元のほうに足元のほうにと動いていって、やっと世未と頭を並べるところまでやってきた。

 ちらりと彼女の寝顔を見た。よく寝てる。前髪に隠れた両眼は閉じられ、起きる気配のかけらも無い。

 そこで、止まってちょっと頭を傾けた。左頬っぺたが、世未の右頬っぺたにぺたりとくっつく。彼女の鼓動と寝息が聞こえた。髪の毛が少しくすぐったいのを我慢して、しばらくそのままでいてみた。

 可愛らしいと言ってもかまわないだろうその寝息は、穏やかでおとなしく規則正しいけれど、たまに浅く乱れるようだった。何か夢でも見ているのだろう。それがいい夢でありますように。

 髪と膚の匂いとお日様の香りの中で、部屋を漂う細かい埃が明るい日差しに輝いているのを見ながら、僕はベッドに寝転んだままで耳を澄ませた。

 彼女の寝息と風と葉擦れの音以外は何も聞こえない。

 今日も、世界は僕らだけだ。







TOGETHER






 この世界という舞台からみんなが下りてしまってから、もうかなり経つ。

 あのわけのわからないウィルスだか未知のバクテリアだとかそんなようなものは、それまで苔が茂るように暮らしていた人々を、根こそぎシャベルですくい取るみたいにして消していった。

 医学者だった父さんの言では、僕らには生まれつき免疫があるのだという。奇跡そのものの確率を突破して起きた遺伝子変異。だから他の人たちみたいに死ななかった。

 でもその前から僕らは二人でいた。


 ただ、それがずっと続いてる。



 僕ら二人以外の人が免疫を持っていて今でも生きてる確率は、それはもう目も当てられないくらい酷いものらしい。

 僕らの頭を撫でながら、かつて父さんは言った。

『もうお前たちだけでいい、ってことなのかな。神様は』

 憶えている限り、あの人はいつも何かを諦めたような物言いしかしていなかったような気がする。まあそれも、今思えば無理ないことだけど。

 こうも言った。

『この世で本当に要るものなんて、きっとそんなには無いんだろう』

 聞いたときはなにを、とか思った。けれど今もってそれを否定する材料が見つからない。かといってそれで僕らが要るものなのかといえば、それもどうだかわかりはしない。




 世未のすべすべした頬っぺたの感触を横に、僕は残った世界の物音を愉しんでいた。

 だが毛先のカールした彼女の髪がこそばゆい。しばらくすると次第に耐えられなくなってきたので、やむなく中断しようとした。

 そこで初めて、さっきやっと戒めを抜けた左手が、いつのまにか世未の髪を撫でていることに気づいた――彼女の傍に居ると、時には自分でも知らないうちに何気なくそうしていることがよくある。彼女の髪は癖っ毛だけど手触りが柔らかく、手に快いのだ。

 左手はそのままに、くっつけたままになっていた頬っぺたを彼女から離した。すると短く息を吐く音が聞こえて、

「……有至」

 どこか咳くように、世未は僕を呼んだ。

 至るところが有る。世の未だ。僕らに名前がついたのは、世界がこうなる兆しを見せ始める、その直前のことだという。名付け親は父さんだ。なんとも慧眼だと思う。

 呻いて彼女はもう一度僕を呼んだ。同時に、まだその髪を撫でていた僕の左手が、がしっと掴まれる。さすがに少しどきりとして固まった。

 起こしてしまったか、あるいは起きていたのか。でも両目はずっと閉じていたはずだけど。

 彼女は僕の左手首のへんを捕まえていた。握る力を強め、彼女は僕の耳元でまた何か呟いた。今度はよく聞こえなかった。そのあと力はすぐ緩んだが、手は放してくれない。

 そして沈黙。

 彼女の寝顔を確認したところでは、完全に眠っている。しかし、眉を顰めていて寝息は浅く、あまり安眠といったふうではないのも確かだった。

 世未はまだ何事かむにゃむにゃ言ってる。僕は自分の左手首と、それを掴まれている彼女の右手とを見た。どっちにもあちこち生傷があるが、それでも彼女の手は基本的にすべらかだ。そしてこちらのほうはといえば、手首の内側に引き攣れた切り傷の跡が何本かある。どれももう古い傷跡だけど、なかなか消えるようなものでもない。彼女の手はそれらを覆い隠すように握られていた。

 僕はもはやくびきの無くなった右手で、左手を握っている彼女の手をそっと包むように撫でた。そうして少しの間さすっていたら世未の両眉が下がって、呼吸も深くなり落ち着いた。僕はふうと息を吐き肩の力を抜いた。



 背中に密着する世未の体温は、ぬるい牛乳のようによく馴染む。この古いベッドに被さった暫く洗ってないシーツには、二人ぶんの体温と二人ぶんの体臭が染み込んでる。

 それらは区別がつかないほど雑ざりあい、部屋にも移っている。だからいつも外から戻ってきたときに閉め切ってた部屋を空けたら、むわっとこの匂いがするのだけれど、それが嫌いではない。

 世未が安眠を取り戻したのを見届けてから、その髪に僕はもう一度そっと触れて、それから彼女の手をそろそろと引き剥がした。そして芋虫よろしくごそごそとベッドの上を這いずって、うつ伏せの格好からじわじわと起き上がる。自分でも驚いたことにまだシーツとタオルケットが名残惜しかった。さらに、あらわになった彼女の背中と尻とが僕をしきりに誘惑する。それらを断ち切った精神力は賞賛されるべきだろう。誰も讃えてはくれないが。

 一分ほどもかけて、ようやくベッドに身を起こした。窓からの日差しが素肌に当たって暖かい。心地よさにまた一分、そのまま座ってぼうっとしてから、立ち上がって着替えを適当に漁った。

 ボクサーを履き、何度も洗濯されてすっかり色の抜けたTシャツに腕を通す。

 洗いざらしのTシャツの下で、僕のでない体温が背中に長く残った。僕は視線だけ手首の傷跡から背けて、服を着た。着ながら、思い出していた。日差しが明るいものだから、記憶の池の底まで照らされたみたいだった。そういえば、あの日は今日みたいに天気がよかった。

 うつ伏せに寝ている世未を見た。ちゃんと爪切りしてある足の指の先っぽからつむじの真中からまで、しげしげと眺める。それから自分のことも同じように見てみた。

 父さんは僕ら二人に、詳しい知識や研究内容なんかはストレージに入ってるから読んでおけと言い残した。けど未だに読んでない。そのうち読もうとは思っているけど、その父さんも今ではここに居ないし、どうしても面倒になってしまってる。別にそれで困るということもないのだけど。

 顔を上げて視線を世未に戻した。その皮膚、その下の血管、その内側の血液にあるはずの抗体は、僕らの知らないところで僕らを生かし続けている。ことごとく廃墟になったかつての建物に残る多くのほとけさん――父さんは屍骸をそう呼ぶようにと言ってた――を見れば、否応無く理解できるというものだ。

 でも目を凝らしたくらいで、そのことは当然まったくわからない。わかるのはそう、顔色肌つや、髪とか爪とかの具合なんてのがせいぜいだった。

 それでどうかといえば肌はともかく、髪がだいぶ伸びてきていた。そういえばもうふた月ばかりも散髪してない。

 自分の髪を摘んでみると、やはり同じように伸びすぎてる。同じ日にそれぞれお互いの髪を交代で刈るのだから、伸び具合がだいたい一緒なのは当たり前だ。

 サイドボードの上のはさみを見た。よく切れそうなぴかぴかのはさみ。これで僕らはいつも髪を切る。

 髪質は若干違うけど僕と世未の髪型は同じ、アメリカンショートヘアもどきだ。僕は単に不器用でそのようにしか世未の髪を刈ってやれないだけなのだが、細かい手仕事の得意な彼女がそうする理由はまた別にある。いや、別では無い、というのか――ともかくそれはずっと前からのことだ。

 毎日のように思い返していることを、そうやって今日もまた反芻をする。



 ある日誰も通らない大きな交差点の真ん中に、僕らは椅子とはさみを持ってきて、散髪をしていた。

 そこはずっと向こうまで見渡せる、まっすぐな広い道路の交わるところで、周りにはビルもずらりと建っている。そんな中、ひび割れだらけのアスファルトの上でぽつねんと二人で床屋ごっこをするというのは、なんだかすごく楽しげなことのように思えた。

 切った髪の毛を家の中に散らかしたくないし、だから僕らは散髪するときいつも、そこまでわざわざ道具を運んでくる。

 見渡す限りの地上にいたはずの人々は、今ではその影も見えない。

 生活の酷い変わりようにようやく慣れてきて、世未と僕とにやっと日常と呼べるものができてこようとしていたころだった。

 手首の傷はもう落ち着いていたけど、包帯はまだ巻いてあった。薬は抜けていた。

 そこまでは車でやってきた。高い蒼空の下で、僕が椅子やワゴンなんかを運び、世未ははさみや水などこまごましたものを準備していた。

 やがて準備ができた。僕は椅子に座って、落ち髪よけに用意した穴開きシーツを頭から被った。そうしてばさばさとシーツの裾を広げながら、世未に頼んだ。

「今日はさ、毛先を適当に整えるだけで」

 別になんということはないただの思いつきで、試しに長くしてみようかと考えただけだった。しかし、

「嫌だよ」

 即座に簡潔な答えが返った。彼女は続けて曰く、

「いま乾期だし、長くすると枝毛になりやすいもん」

 といってもそれは僕よりも世未の髪質にありがちなことだ。

 彼女は僕の髪を、好んで自分と同じ風に刈るという奇癖がある。わざわざ僕に自分の髪を先に刈らせておき、できたら手鏡でじっくり髪型を検分して、それから僕のを始める。先に僕の髪を刈ろうとはしない。

 それで髪形を変えてみようと思っても、それが彼女の好みに合わない場合、にべもなく断られるのだった。どうせ誰かほかにいるわけでもないのだし、それはそれでどうでもよかったのだけど、

「――なあ」

 呼びかけられて顔を上げた彼女に、僕は今まで何度か却下された提案をまた懲りずに持ちかけた。

「頭さ、同じじゃなくても――」

「駄目」

 すとん、と言い切られた。

 何か言い返そうとしたけれど、あまり真顔だったからやはりまた何も言えなかった。彼女は触れたら膚が切れそうなほど真摯で、鋭い貌をしていた。

 でもそれで僕が静かになったのを見てとると、ふっと表情を緩めて、いつも通り生意気そうに、どこかしら満足げに胸を反らせた。

 世未は僕の髪を切りながら言った。

「わたしと同じにしてるってね――」

 まるで言い聞かせるように。いや、実際そうなんだろう。

「――おそろいの目印だよ。一目で"ああ、仲間だ"ってわからなくちゃいけないの」

 彼女の主張はそれまでに何度か聞いてはいたが、そのころは正直よくわからなかった。だから何度も提案していたのだ。

 誰に仲間だと思ってもらうのか、目印に意味があるのか。

 なんとなく理解できるようになったのは、割と最近だ。

「世界はこんなに何もなくなっちゃったから、なんか確りした、つながりがさ。あるといいでしょ」

 やっぱりわからなかったが、僕は適当に相槌を打った。

「……そうだな」

 主張を、生返事っぽい相槌とはいえ肯定されて、世未はちょっと嬉しそうな雰囲気を返した。

 そして二、三度はさみを使って、しゃき、ぱらぱらと髪の毛を落としてから、また言ってきた。

「それに有至はさ、」

 ほんの微か、何かを堪えるような声だった。

「有至はそういうのがないと、どっか行っちゃうかもしれないじゃない」

 僕は黙ったまま前を向いていた。訪れた沈黙の内側で、しゃき、とはさみが閉じるたび、髪が散り落ちるのを眺めていた。なぜだか妙なくらい落ち着いた気分だったのを憶えている。




 窓を開けてその桟に腰掛け、リーバイス(いまやビンテージでもなんでも選び放題だ)に脚を通してベルトを締める。そのまま背を反らせて上半身を部屋の外に出し、空を見た。
 青空。

 本当に蒼い空と白い太陽とがそこにあった。

 日差しは夏のような無節操さを持たず、適度な強さで降り注ぐ。雲はほどよく散っていて、雨になる気配は無い。予報機も明後日くらいまで晴れだと言っていた。いつもは大して当てにもならない予報機だが、今回はかなり有望じゃないかと思う。

 海岸を飛ばすにはいい日よりだろう。こんな、月並みな言葉がもったいないほどに。そういえばしばらく墓参りもしてないし。

 さっそく車の準備をしよう。

 幌は畳んでおこうかどうしようか迷った。日焼けが少し心配ではある。きちんとした観測をしてるわけではないけど、オゾン層を壊してまわる連中はいなくなっても、彼らが遺したガスは年々確実に紫外線量を増やしている。

 でもあんまり空がきれいなので、結局オープンにしておこうと決めた。日焼け止めを塗ればいいだろう。こういう気分は大切だし、紫外線だって生き物には必要だ。ビタミンDだったっけ。

 寝てる世未をベッドの上に残して外に出る。

 ドアを開けたら、外気を嗅いだせいだろう、小さなうめき声がした。とりあえずドアはそのまま開けっ放しにしておいた。そうすればそのうち起きる。

 サンダルを履いて、ぺたぺた歩き出す。

 家の白い外壁をぐるりと回り込み、裏手に向かう。そうやって歩きながら、僕は自分たちの住んでいる家を見上げた。

 こじんまりとした、小高い丘の上の小さな白い家。なんだかひどく昔の映画で見たような、陳腐なイメージ。だけどそれが気に入っているのだった。それに、ここを住むところに選んだのは僕だ。

 裏庭に入って、車庫を開けた。湿ったカビとオイルの臭いが、冷たい空気と一緒にぞろぞろ這い出てきた。

 車庫には窓が無い。暗ぼったい中にある車を見た。悪路走行を前提にした太いタイヤに、ごつくて角張ったラインがいかにも『わたし丈夫ですよ』と主張する車体。総じて直線で構成されているうち、2灯式のヘッドライトがそこだけ目玉のようにまん丸で愛嬌がある。

 実際見た目通り、こいつは実に頑丈だ。なにしろ近くの基地まで行って調達してきた軍用車だから壊れにくさは折り紙つきと言える。現に今まで二度三度と玩具のように横倒しになったり転がったりしたけれども、未だ平気で動く。

 照明を点けて、軽く車の点検をしてみた。ガソリンとオイルを見て、ハンドルとブレーキの具合を確かめる。だいたい問題は無い。だが左後輪の空気が抜けていた。

 しゃがみこんでそのタイヤをチェック。溝も無い。新品と交換したほうがよさそうだ。ジャッキを上げてパンクしたタイヤを外した。縦に起こして回転をつけたらそのタイヤはごろごろ無気力に転がっていき、やがて壁にどすんとぶつかって倒れた。それを横目に新しいタイヤの包装を剥がす。皮肉なほど新しい石油の臭いが鼻を打った。

 車庫にあるタイヤはもう残り少ない。今日ついでに拾ってこよう。

 修理は終わったが、泥とオイルで手がべったりと汚れてしまった。そこに至り、軍手を着けとけばよかったと気づいたがもはや後の祭りだ。

 ひとまず近くの雑巾で手を拭いた。でもあとでちゃんと手を洗わなければならない──さもなければ食事のとき、世未が目を剥いて怒るだろう。そこではたと思い出した。そういえば石鹸も無かった、どうしよう。

 そんなことを考えながら、エアポンプでタイヤに空気を送り込む。やる気がなさそうにだれていたタイヤは、たちまちぱつんぱつんに張り詰めた。指で押して抜けが無いことを確かめ、作業終了。

 立ち上がって大きく伸びをした。腰のあたりにどっと血行が戻るのが心地いい。両手を万歳の形に上げて、うーっと唸った。

 外の陽は、かなり高くなってきているようだった。ちょっと時間をかけすぎたかもしれない。もうそろそろ起きてくることだろう。

 幌を外して、畳む前にぱんぱんとはたくと、大量の細かい砂埃が周りに舞い上がった。それに咳き込みながらも、しかしそのおかげで車庫の入り口から差し込む太陽光が、埃に乱反射してはっきりと見えた。

 明るい光が固まりのようになって、積み木みたいだった。それが入り口にどてっと置かれている。やはり、今日はいい天気だ。

 埃がおさまるのを待ち、僕はおもむろに運転席へとついた。

 ハンドルを持ち、でかくて無骨なその形をしばし確かめてから、何度かアクセルを踏み込む。そして挿しっぱなしのキーをイグニッション。軽快にセルが回って、エンジンがかかった。

 がぼぉんぼぼぼ、と車庫の中だと音がこもってうるさい。けどまあ快調と言える。排気が車庫にこもる前に、クラッチを踏んでギアを入れ、ゆっくりと車を出した。

 いったん表に回って、車を家の前に横付けし、世未を迎えに行った。

 車を停めて降り、敷石の上をひょいひょい跳んで、玄関前に立つ。そこであれっと思った――開けっ放しにしておいた扉が閉まっていた。

 一応中を確めたが、やはり彼女は居ない。

 僕は車に戻ってエンジンを止めた。

 来るまで待とう。

 シートを倒し寝転がると、両腕を枕にして目を閉じた。

 少々陽が強くなってきたけど、風は穏やかだ。




「あのさ――」

「んー?」

 ちょきちょきとはさみを躍らせる世未の手の下で、自分の髪の切れ端が地面に落ちてゆくのを眺めながら、僕は訊いてみた。

「一人一人で生きてくって……考えたことあるか」

「――――ひとりで?」

 彼女は手を止めないまま、ともすれば聞き流してしまいそうな風で――またはそういう感じを装って、おうむ返しに答えた。

 応えて僕は続けた。

「ああ、それぞればらばらにさ」

 彼女ははさみを動かしながら、僕の言ったことを反芻しているようだった。

 つばを飲み込む音がかすかに聞こえたような気がした。

 手首の傷が疼く。

 少しして、彼女は一言で答えた。

「無いよ」

 きっぱり、というには僅かに色の交ざった口調。

「それって、起きてるときも寝てるときもばらばらで、顔を見たりもしないで、お互いにしゃべったり触ったりもしないでるってこと、だよね――」

 僕は黙っていた。

 彼女は常に、僕と何事かを通わせようとしてくる。始終顔を合わせて、全てを共有しているはずなのに、世未はいつもそうだった。

 それをいいことに僕は、イージーにも彼女を求めていたのに。さらに僕はそれらを一方的に断ち切るような真似をしたばかりだというのに。さながら、葦にすがりついてくるように。

 傷をつけたその原因は僕であり、彼女だった。

 何も無い世界で撫で合い寄り合って互いに絡んで生きていたその暮らしは、狭い足場につま先立ちするようなもので、バランスが崩れたきっかけは、僕が彼女にどこまでも吸い付くような依存をして、また彼女からも拠り所となるよう請われながらも、それを疎ましく思っていたことにある日気が付いたことだった。

「有至は、あるんだね」

 彼女は言った。

 二人で固まっていてはならない理由はある。

 どこかにまだ生きてる人がいるかもしれない。こうして僕らが生きている以上、何かの偶然でどこかに同じく生きている者がいてもおかしくはない。

 だったら探して見つけて、それぞれに散らばらなくてはならない。あちこちこの世界を見てまわらなくちゃいけない――たぶん、そういう感じのがやるべきことなんだろう。

 しかしそれは、恐ろしくばからしいことにも思えた。

 僕が何も言わずにいると、世未は訊いてきた。

「……駄目なの?」

 風が吹いて、足元にたまっていた髪の切れ端を吹き散らした。混ざり合った僕らの髪は、ひび割れの隙間に消えていった。

 彼女に駄目だと言う、適当な理由ならいくらでも思い浮かんだ。

 しかしその全ては言い訳くさかったし、それらを含め全部を放り出そうとした僕に言えることでもなかった。

 それに、口に出そうとすればそのたび、涙と鼻水で顔中べとべとにしながら僕の手首を包帯で締め付ける彼女の姿が脳裏をかすめた。

 また手首が疼いた。

 ふと目を上げると、世未がはさみを操っている、その手元が見えた。僕の髪を切っている彼女と視線が交わったが、僕は何も応えなかった。

 長い沈黙が通り過ぎてから、ぽつりと世未が呟いた。

「わたしも」

 一度途切れるも、思い出したように、それこそ独り言のように彼女は無表情な声で続けた。

「わたしも、連れてってよ」

 しゃき、ぱらぱらと髪が落ちた。後にははさみの音だけが続いて、時折ぎらりとその刃の照り返しが来る。

「……ねえ」

 問い詰めるように彼女は言う。
 その声だけは平板なのだけど、よく見るとそれを持つ手がごく小刻みに震えているような気もする。
 ここで頷かなければどうなるだろう。僕は喉元を無防備に晒している。はさみは手首が切れたくらいだから、僕の喉くらい簡単に裂けるだろう。それなのに、僕はとても落ち着いた気分だった。

「……連れてって、よう――」

 結局ぎりぎりまで待ち、彼女がはさみを握る手にだいぶ力がこもってきてから、うんと答えた。




 閉じた視界の外で、がさ、と音がした。

 じわりと意識が賦活する。寝ていたらしい──どれくらい経ったのか。 薄目を開けようとしていたところで、瞼の向こうが暗くなった。

「おはよ」

 声をかけられて、漸く目を開ける。

 世未が車の横で僕の顔を真上から覗き込んでいた。

 シートを元に戻し、身を起こした。彼女は端の擦り切れたGジャンにキュロットという出で立ちで、片手にバスケットを持ち、またもう一方の手ではあごひも付きの麦藁帽子を僕の頭上に掲げていた。

「日射病になるよー。はい、これ」

「お。ありがと」

 彼女が差し出した帽子を受け取る。ついでに手を伸ばして、バスケットの上に被せてある布巾をぴらりとめくり、中身をあらためた。

 バスケットの中はサンドイッチでいっぱいだった。具もそれなりに豊富だ――レタスが入ってないが仕方無い、生野菜はレトルトや缶詰なんか無いし、菜園のやつは悪い虫がついて全滅してしまったのだ。

「起きたらいなくて、探したらガレージのほうが開いてたからさ」

 空腹のせいもあり、ぎっしり並んだサンドイッチはすばらしく絢爛に見えた。覚えず感嘆の吐息を漏らした僕に、世未は笑って言った。

「車、けっこう時間かかるだろうからって、朝ごはん凝っちゃった……あっ、こら」

 サンドイッチを摘もうとした右手を、ぴしとはたかれた。

「手。洗ってきて」

 言われて思い出した、手は埃やらオイルやらで真っ黒だ。そして石鹸は無いことにも併せて思い至った。そのことを彼女に告げると、

「あ、そうなの? そういえば洗剤もなかったっけ」

 あっさり言われた。てことは、これは昼飯になるのか。

 かなり本気で──半分くらいはわざとらしい演技で──がっくりと肩が落ちた。

「……しょーがないなあ」

 くすくすと笑って、彼女は期待通りに口元へハムサンドを差し出してくれた。僕はやにわかぶりつき、二口で全部口の中に入れてしまった。指までかじられそうな勢いに、世未は慌てて空になった手を引っ込めた。

 胡椒をきかせたハムサンドはスモークの薫りも豊かで、すばらしいの一言。パンの焼き方も随分巧くなったものだ。

 もしゃもしゃ噛み、飲み込んでから僕は言った。

「世未」

「なに?」

 彼女は返事をしながら、肩に提げていた水筒から紅茶をミニカップに注いで、僕に渡した。それを受け取り、一息に飲んでから言う。

「出かけようか」

「ん。行こ」

 先にバスケットを座席に置いてから、彼女は身軽に助手席へ飛び乗った。そうしてちゃんと座ったのを確かめて、僕はエンジンをかけた。エンジンが身震いして蘇るまでの短い間に、あれから何度もなぞったことを彼女の白い脚と、自分の手首の傷痕を見ながら考えた。

 僕が助かった――助けられたのは、それすら甘えていたからだ。考えればわかりきってることだ、見つからず密かに死ぬ方法なんていくらでもある。わざわざはさみなんかで血管を切ろうとしなくたってもっと鋭くて使いやすい刃物はあるし、さもなければ拳銃だって拾ってこれる。世未のことを邪魔に感じていたというのも、結局ただ彼女に甘えているだけだった――とどのつまり、僕は彼女から頼られることはもちろん、彼女に頼ることさえもまったくできていなかった。

 それは今でも実は大して変わりもなく、そればかりかたちの悪いことに、できるふりをしてみせることをできるようになってしまったのではという気がする。

 とはいえあれから『どっか行っちゃう』つもりはなかったし、実際しなかった。できるふりと言っても巧くやってはいる、ふりなのかどうか自分でも区別はつかないくらいには。

 ――そう都合よく思ってる。

 カーステレオ(取り付けにはかなり苦労した)にお気に入りのディスクを入れ、サイドブレーキを下ろしてギアを入れアクセルを踏み込む。車は発進し、一瞬おいて威勢良く跳ねるように加速した。スピード感にあわせたようにアップテンポな曲が、風切り音を圧してスピーカーから流れ出す。


 無人島で俺は一人ぼっち 耐えられない孤独に落ちる前に救い出してください
 手紙をガラス瓶に入れた 助けてと
 いつか誰かに届きますように


 POLICEのやけにぎらぎらしたギターをバックに、隣の助手席で彼女は何かメモらしきものを読み上げていた。

「ええっと、石鹸、洗剤、浄水器のカートリッジ――」

 要る物リストのようだ。調達行にするつもりはなかったけど、けっこう切らしているものは多そうではある。

「車のタイヤもな」

 こちらからも追加した。

「タイヤ、と。あと缶詰も補充しなくちゃ」

「じゃ、街か」

「うん。そうしよ」

 僕は頷いて、街に通じるハイウェイのランプに進路を向けた。スピードを乗せたまま減速せずに辻を曲がる。新しいタイヤが派手に鳴り、スティングの声と一緒になって辺りに響いた。


 愛すれば潤う 痛いこともあるけど
 そんなのは初めからわかっているべきだ
 独りでも一人じゃない


 一般道路はたまにガレキやら打ち捨てられた他の車なんかが散らばっていて邪魔だが、ハイウェイにのってしまえば障害物も少ないから、だいぶマシに走れる。長らく整備されていない、そしてこれからもその見込みの無い道路は、そこらがひび割れていたり裏返っていたりするが、この車ならそのくらいは大丈夫だ。

 ランプから家は近い。ちょっと行くと、すぐに赤塗りのゲートが見えてきた。溶接の継ぎ目に錆が浮いてるそれを通過し、車は高架道路にのった。

 ギアを一番上に入れてアクセルを踏み込む。エンジンが高く唸り、風が顔面を打った。帽子を飛ばされそうになって世未が一瞬だけ悲鳴をあげたが、そのあと楽しそうに笑った。

 彼女を横目で覗いた。麦藁帽子を抱えるその両手から、少し下がって腰のへん。そこに履いてるキュロットのポケットには、硬くて細長いものが入ってる。その形は服の上からでもわかる。僕はそれが何か知っている。

 例のはさみだ。世未はいつも自分の手の届くところにそれを置く。


 彼女は僕がとり残していこうとしても許さないだろう。しかし僕は彼女を愛してる。たぶん彼女はそれも知っている。


 このあたりには防音壁が無くて、横を向くとガードワイヤの向こうの下に白い建物の群れが広がっているのがよく見える。中には焦げたり崩れたりしたようなやつもあるものの、そのほとんどは原形を失っていない。かといってそれで何であるというでもない、ただ廃墟としてそこにある。

 眼下に見渡す限り誰も居ない街が広がっている。その様はとても綺麗だ。

 トンネルをひとつ抜けて、ハイウェイは海際に出た。

 日差しの眩しさにトンネル内の暗闇に慣れていた眼を細める僕の横で、世未が歓声をあげた。

 碧色をした遥かな海の、その穏やかなのに鮮やかな色彩は、白い砂と青空とのコントラストをなしている。眼の裏まで突き抜けてゆくようなその景色から、芳しい潮風が吹きつけた。太陽は相変わらず白く輝いて、あまねく地上を照らす。

 こんなに世界は美しい。

 それはばかばかしいまでに。

 それを実感するといつも疑問に思う、理由はあるのだろうかと、ここで何かをまた、真っ当真面目に始めてしまうだけの理由。

 あるいはもしかすると、そんなもの無いのかもしれない。

 だから、世未を置いていくことはもうない。



 道路脇から伸びる草を時折跳ねかして、車は海岸線を走る。

 緩やかにカーブしてゆくハイウェイに合わせてステアリングに角度をつけ、横向きのGを楽しみながら、またちらりと世未を見た。

 海に見惚れていた彼女は、しかしすぐこちらの視線に気づいて、屈託無く満面に笑った。

 いつものように僕は心の底面でどこかしら行き詰まったやりきれない感じと、それに伴う奇妙な安息を覚えた。けれどやはりいつものように、うまく無視した。

 そしてハンドルを持ちながら助手席に身を乗り出し、猫のようにはしゃぐ彼女の頬にキスした。




written : たのしげ