今いるこの病棟は、"特別患者個室棟"なる、厳めしくもいかがわしい名がついている。ただ、受付案内などでそう呼ばれることは滅多にない。来客も極めて少ない。案内札にも本来の名は書かれておらず、普通に “病棟(別)” とだけ記されている。
 それで何が特別かといえば、患者と建物、その両方だ。
 病室が一般病棟のそれと比べて2倍も広い。しかも個室で、造りも良い。こんな田舎の病院のくせに、高級ホテルと見まがうような部屋もある。
 それでどんな賓客が来るのかといえば、人目を避けて静養したい事情を持つ富豪、何がしかやらかしてほとぼりを冷ましたがっている政治家、それらの紹介でやってくる不明の人(大抵は若い女)などなど。どうにもろくな連中ではなく、それだけにいかにもだなと納得させられる者たちだ。
 このことは町の実力者たちにとって公然の秘密となっていて、かつ容認されてきている。
 そうした連中は、蔵原が小癪にも政財界にかつて広げたつてをたどってくるのだ。当然のように蔵原と楠は彼らといろいろ複雑怪奇なつながりを持つことになる。
 つまるところ、この町が今こうして在るのは、そうやって蔵原と楠が暗がりで手を結んできた、そのつながりがあってこそなのだった。
 その蔵原も、やがて患者となって楠の世話になる。ただし、この棟の大半の“入院患者”たちとは違い、紛れもなく本物の患者として。
 蔵原の直系である僕と一初は、もはやあと二人しかいない、絶滅寸前の生き物だ。そうではなかったときにもこんなふうに特別扱いされてはいたが。
 
 僕は一初の病室の、扉の柄にそろそろと手をのばした。
 なぜか病室に入るその前に、いつも一初は僕が来たことを悟る。たとえ僕がどんなに気配を殺していても。今みたいに、扉に填った磨り硝子ごしに察知されないよう身を避けていてもだ。
 たぶん何かしら消し切れてないものがあるのかもしれないのだけれど、僕はそこに何か他の理由付けを求めている。僕らの間に、不思議なつながりみたいなものがあってほしいと願ってる。
 でもきっとそれは、言葉に出したら散ってしまうようなことなのだ。
 だから、なぜわかるのか一初に訊いてみたことはないが、来るたびにいちいちこうして確かめている。
 そして今回も案の定、それまで戸の向こうから聞こえていた声が、突然ぴたりと止んだ。
 まだ扉の柄に触れてもいないのに。一瞬だけ手がとまったが、思い直して柄を掴む。もう硝子から見えないようにしててもしょうがないので、扉の正面に立った。柄を回して、扉を引き開ける。

 病室にはじめから設置されてる物は、大きめのベッドが窓際にあるのと、他には衣類を収める葛籠があるだけだ。床面積は同じベッドがもう三つ四つは楽に置けるくらい広い。そのままならえらく広々としているのだろうが、この部屋では床に玩具やら絵本やらがくまなく散らかって、足の踏み場もない。
 一初は、その向こうに居た。その脇には看護婦を従者のように立たせて。
 彼女は女王なのだ。
 その後ろ、全開にされた窓からは、太陽が少しだけ見える。まるで彼女に後光が差しているみたいだった。
 部屋の中から夏の風がぶわっと吹き付けた。
 患者衣をまとって、女王が歓声をあげている。
 きゃー、と金切り声のような叫びは、うるさい蝉を軽く圧して廊下にまで響いた。
 無邪気すぎる一初の、満面の笑顔は実際、目に沁みる。
 そうやってすべてが何もかもずっと待ちかまえていたように、一斉に。
 それらが僕を打ちのめすことを、無論彼女は知らない。

 いつものことながら、どこから踏み込んでいいものかわからない。
 とりあえず戸口をそのまま動かずに、僕は彼女に声をかけた。

「いい子にしてた? 初(うい)
「うんー、ねえ、おにぃー」

 挨拶代わりに、そんな意志の通じるようなまったく通じないような受け答えをする。 一初は、その内面通りに幼い仕草で、くすくすと喉を鳴らした。
 食事中だったらしく、ベッドの上に設けられた簡易テーブルにプラスチックのトレイが置かれている。一初は前かけをしていて、右手に匙を持ったままだ。昼飯にしては時間が遅いようだが、検査でもあったのだろうか。
 よく見ると、人参のグラッセがトレイの脇によけられ、積み上がっていた。さっきのうなり声はこれだろう。一初は人参が嫌いだから、それでぐずっていたに違いない。
 よくそうしていたものだ。彼女が五歳くらいの頃までは。
 だがそんな一初は今やすっかり舞い上がって、その場で飛び跳ねんばかりだった。

「ねえ、はやくおにい! こっち来て!」

 一初はベッドに座ったまま、そのすらりとした腕をぱたぱたと振り回して、突っ立っている僕を呼んだ。幼い中身と釣り合わない、形よく長い脚もばたばたさせた。
 自分の身体長を考慮しない彼女の動作に、危うくテーブルまでがトレイごとひっくり返りそうになる。

「あっ、こらちょっと一初ちゃん、待って。待ってってば」

 そう諫めたのは、付き添っている看護婦――西谷さんだった。
 西谷さんは、まだ中身が入っている食器をすかさずテーブルからどけた。
 この楠医院で一番信頼できる看護婦が西谷さんである。
 彼女のちょっと疲れ気味な、三十過ぎの横貌には、いかにも良い時に来てくれたと書いてあった。いやがる一初と困窮する西谷さん。廊下で聞こえた声からして、その有様が目に浮かぶようだった。
 西谷さんは、一初を最も面倒よく見てくれる。評価基準はそこだけだ。

 足下の玩具を適当に脇へと寄せ、ベッドに歩み寄る。
 もうあと数歩と言うところで足を止めた。きょとんとしている一初に言う。

「ほら、早く食べちゃわないとお話できないよ?」

 言ってから僕は強い既視感を感じた。

(ほら、早く食べちゃわないと一緒に遊べないよ?)

 自分の昔に言ったことが、映像を伴って脳裏に閃いた。目の前に今いる一初は、そのときよりもずっと大きくなってはいるが、彼女は僕の記憶をなぞるように反応した。
 一初ははっとして食器に向き直った。

「ううー……」
「ほら、早く」
「……うん」

 僕に促されて、彼女は両手でテーブルに平皿を置き直した。そこに盛られた人参の角切りを見つめて、しばらく逡巡する。しかし意を固めたか、えいっとばかりに箸を突き刺して、次々と口に放りこんでいった。
 眉根を寄せて人参を食べ続ける一初の横から、西谷さんがこちらに苦笑いを向けた。人参を食べさせるために一初をなだめすかし、手管を尽くすも通じなかったのだろう。 僕はいつもどおり、深く感謝を込めて彼女に一礼した。彼女はおおらかに微笑んで、返礼してきた。
 いくらもしないうちに一初は皿の上の敵を刈り尽くした。
 誇らしげに言ってくる。

「ぜんぶ食べたよ!」
「偉いわー、一初ちゃん」

 西谷さんの賛辞もついた。

「でもー、久至さん……お兄さんがいないときも、そうやってちゃんとできるといいのにね?」

 ちょっとおまけつきで。

「……そんなことないもん、いつもぜんぶ食べられるもん」
「あれー? じゃあ一昨日のさやえんどうは」
「う……」

 一初は考え込んでしまった。彼女はえんどう豆も苦手なのである。
 そろそろこのへんで助けてやろう。
 西谷さんに目配せして視線で抑え、言う。

「今度は食べられるよな、初」
「うん!」

 屈託なく頷いた、そんな一初の頭を撫で、べたべたになってる口の周りをハンカチで拭いてやる。拭いている間中、彼女は、この世にはもう幸せなことだけしかないみたいに笑っていた。


 それから僕と一初はとりとめのない話をする。
 ただのおしゃべりだ。話がとぎれそうになると、時折西谷さんが合いの手を入れてくれる。といっても話題は常に行き詰まっているようなもので、結局は西谷さんに会話のつなぎを頼っている。もとより、この状態の一初と話し込めるはずもない。
 見舞いとは多分そんなものかと思うのだけど、一般的にどうなのかは知らない。
 というのは、こうなった家人の見舞いしかしたことがないから、ほかの怪我人やら病人やらを相手に見舞う場合でもこういう感じなのかどうかはよくわからないだけだが。

「ねえおにぃ、いつおうちに帰れるの?」

 突然それまでの話題から跳んで、一初が訊いてきた。
 開けっ放しの窓からずっと聞こえていたはずの油蝉が、急に浮き上がったように大きくなった気がした。

「まだ新しいおうちできないの?」
「……ああ……まだだよ」

 僕はいつもの返事をした。
 一初は前のときの会話なんか憶えちゃいないから、だいたいそれで納得する。
 台風で壊れた家の修繕をしている間、ここに待避しているという設定だ。いつの間にか一初自身がそれを創作していた。それでいて不思議なことに、彼女にはここが病室だという認識はある。

「大きい嵐だったからね」
「ふうん」
「一初はいい子だから、もう少しここにいられるよね?」
「…………うん。
 でもお薬苦いし、せんせい嫌……」

 相変わらず楠はえらく嫌われているようだ。内心、ざまはないと思う。

「新しいお部屋作ってるのよー、一初ちゃん。それで遅れちゃってるの」
「え? そうなの、このお部屋より大きいお部屋?」
「そうよー、そこのぬいぐるみなんてたくさん並んじゃうの」
「そうなんだ……」

 西谷さんが助けを入れてくれた。
 だがこれもまた、いつか交わした会話だ。

 風がやみ、西陽が射してきて、病室に夕方前の蒸し暑さが徐々に満ちてくる。油蝉も静かになっていた。

 僕らは、ただ同じ会話を繰り返しているのだろうか。
 実はそうではなくて、ほんとうは同じ日を繰り返しているのではなかろうか。
 昨日も明日も同じ一日で、一初と僕は西谷さんとここでこうして同じ話をしているのだ。
 夕方までそうして過ごし、お互いにこにこと笑うのだ。
 その後は。

 首の後ろ当たりをそんな考えがよぎった。
 しかし窓の外で、やや早いひぐらしの声が、そんなわけはないと言っている。
 実際、来るたびに一初の“年齢”は違う。

もどる  つづく