鉱山はかつてと変わらぬ有様で動いている。
 とりたてて言うほどの混乱は別になかった。鉱業は、僕の家が祖父の代から続けている商売だ。この蔵原鉱業株式会社を父から継いでもう数年経つ。
 父が"来て"しまってからというもの、実質的には僕一人で社長業務をこなしていた。だから引き継ぎといっても形式上のことだった。取締役仮代行などというわけのわからない役職名を、代表取締役、と書き換えるだけで済んだ。
 だがすべてがそれで終わるでもなく、それまで父の名義だったもろもろを書き換えて手続きしてと、面倒で手間がかかった。そのうえ厄介なことに、どこぞの戸棚の隅にずっと忘れられていた書類が、時折土左衛門のように浮かび上がることもある。
 今、手元にある書類もそうだ。とっくに閉じられた鉱区についての権利配分がどうとか、心の底からどうでもいい内容のものばかりだが、なぜか全部に判子を押さなければならない決まりになっている。

 くだらない仕事だけれど、現在の僕にはこの仕事しかない。そのように自分で調整したのだから当たり前だ。
 数枚が束になった書類に目を通し署名捺印、その繰り返し。

 狭いが一応洋風仕立ての社長室には、デスクが二つある。窓側の、僕が使う大きいものの他に、出入り口近くに事務机が置いてある。学校の教室にあるような安手の机だ。その机は一初が、外国の映画で観たのだと言って無理矢理ここに運び込んだものだった。社長室のデスクとはこのような配置でなければいけないという。それにしては素朴すぎると思うが、そのへんは気にならなかったらしい。

 こういう単調作業は、ペシミスティックな考えを呼び起こす。
 たとえばそう、せめてその映画の通りに、一初があの机で秘書のまねごとでもしていてくれたなら、まだしもだっただろうに。

 もっとも、一初はたいていはものの数時間で根を上げていたし、それに彼女があそこに座っていると、社長秘書というよりは居残り勉強させられた女生徒にしか見えず、来客があるときはけっこう困ったものだ。
『あぁもうやだやだ、飽きるよう、これ』
 もううんざりだ、とばかりに宣う一初の声。それがまさに今、そう聞こえているかのように、耳に蘇る。思わず事務机を見やる。もちろん誰もいない。


 結局、仕事は途中で放り出してしまった。
 だいぶ残ったまま机に置き去りにした書類については、あとで事務のほうから小言の一つもあるだろうが、まあ仕方がない。あのまま仕事を続けるには、窓の外が明るすぎる。

 車庫に行ったが車は出払ってしまっていた。
 幸い薄く雲が出て日差しが控えめになってきたから、歩いて行くことにしようと決めたところで
「社長ー!」
社長の『長』を特に強調した抑揚で、社屋から僕を呼ばわる声がした。
 声の方を見ると、事務室の窓から箭美(やのみ)がこちらを見ていた。
 彼女の顔は見えないが、喜んではいるまい。さっそく見つかったなら予定を変えよう。
 歩きはまずい。



「しゃ、ちょうー! ……ああ、もう!」
 車庫から久至が自転車に乗ってふいと出てきて、見る間に道の向こうへ消えて行く。
 その動きはけして素早くはないけれど、今から靴履いて出ていっても間に合わない。かといって窓から飛び出すわけにもゆかず、私はそれを見送るしかできなかった。
 未処理のまま残されてるだろう書類の山を思うと、膝からがくりと力が抜けた。それを見て隣席の同僚が声をかけてくれた。
「なに、また逃げられたの? 箭美」
「そうよ」
 机に突っ伏して応える。
「また私らに判子だけ押させる気か、久至のやつ」
 つむじの辺りからうめき声を漏らすように呟くと、頭上で同僚が苦笑いしている気配があった。それで続けて漏らす。
「やっぱりお見舞いかな」
「まあ、そうだろね。だからそんなに怒らないであげたら? あと箭美、名前呼び捨ては」
「わかってるよう」
 顎だけで力無くうなずく私の頭を、雲の切れ間から差し込んだ陽が灼いていた。

もどる  つづく