走り去っていった久至の自転車を、やな気分で見送って、事務室を振り返った。
「少ないわー」
思わず漏らす。そして自分の席に座りかけながらもう一言。
「人が」
頬杖ついて、虚ろな眼で呟いてみた。
「そーねー」
となりで同じ格好をしてる幸が、同意を伝えてきた。
「なんだか登校日みたい」
そういえば、この部屋のつくりは学校の教室みたいだ。木の床とか、外がむやみに明るそうなところとか。ただし、いささか狭い。
この町よりさらに田舎の分校の出だという幸のその感想に、私はため息で応えた。
事務室には今、私の他に二人いる。
一人はさっきの慰めだかなんだかをしてくれた同僚の幸(さち)。席が隣なので――部屋に机は6つしかないのはおいといて――、よく彼女とはさっきみたいな軽口をきいたりする。
彼女とは幸、箭美、と名前で呼び合ってるけれど、勤めている会社なのにこう言ってはなんだが年々商業人口が減ってゆく我が町の、その象徴のようなこの蔵原鉱業で、歳がこれほど近い上に話しやすい同僚が居てくれるのは奇跡的なことだと思う。
私にとって、よく彼女は救いになってくれる。寝坊してお昼ごはん持ってこなかったときとか。
他にもたとえば、膨大な量の雑仕事がわき出してくるようなとき。つまりまさに、今。
もう一人は窓を背にしてさっきから新聞読んでる課長。
この小柄なおじさんが仕事をしている姿は、私ら数少ない事務員が持ってくる書類に判子を押すところくらいしか見かけない。会話も無いし、須賀君(私だ)お茶を頼みます、以外の声もあまり聞かない。でも会社は運営されているから、少なくとも何もしてないということはなくて、見えないところでなにかやってはいるんだろう。気がつくといなくなってたりするから。
さもなければ、私らの仕事は会社にとってはたいして意味がないのかも。あり得なくもなさそうで怖い想像になったので、そのあたりは考えないようにした。
私らと課長を除いて、他の席は空いている。毎日じゃなくて一週間に三日か四日しか来ないパートタイム事務員のおばちゃんと、外回りの肥ったおじさんの席だけど、どちらも今日は居ない。残る一つの席はこの間辞めたおばちゃんのとこで、今は空席になっている。街住まいの息子夫婦に孫が生まれて、この際だから一緒に住もうと呼ばれたんだそうだ。おめでたいことだが、こういうときには要り用な手がまた少なくなってしまった。
「幸、終わるのかなーあれ。明日の朝一、郵送しないといけないのに」
「社長室にもってった書類、束だったもんね。こーんな分厚い」
「久……しゃちょー、あとで憶えてなさいよ」
「だからよしなって、箭美」
私がまだおさまらないのを見て取ったのか、幸は宥めるように言ってきた。
「お見舞いね……大変なんじゃないの、社長の妹さん。箭美、あんたの彼……楠さん、から何か聞いてない?」
妹さん。一初ちゃんのこと? そんなの、
「何も」
彼女のことは、
「知らないわよ」
跳ね返すみたいに、堅い声で応えてしまう。
きょとんとしている幸が視界の端に映っている。 しまった、と思ったけれど、何か言い直すのも泥縄な気がした。だけどそれでも一応の取り繕いはしないと。
「えー……、あのね、患者さんのことは話さないの、あの人」
医者は患者のプライバシーに関わることは口外しない、それは事実ではあったけれど、実際はふつうの世間話みたいに話題となることもある。恋人同士の間ではなおさらだ。しかし一初ちゃんのことは今まで話題になったことはない。
本当に知らないのに、ごまかしているような気分で私は続けた。
「あのさ、仕事の話とか、しないから」
「……そうなの」
ありがたくも、幸はそれ以上訊いてこようとはしなかった。
窓から蝉の声がひっきりなしにきこえていた。事務室に冷房はないから、窓は開け放してある。
ちりーん、と風鈴の音。
誰が下げたか、涼しさという点ではそれほど効果のないその音色を突き抜けて、じりじりと夏の日差しが机を照らしている。
もう久至は病院に着いた頃だろうか。
いや、さすがにまだか。
一初ちゃんのいる病院。楠医院。
久至は、楠さん――高広さんと、何を話しているだろう。彼女の容態? それだけ?
どさどさ、と間近に生じた振動で、我に返った。
驚いて顔を上げると、そこには堆く積み上がった書類があった。その紙の山の向こうに、課長が自分の椅子に座り直すところが見えた。いつの間にか、社長室まで書類を引き取りに行って戻ってきたらしい。
隣の席では、ほぼ同じ量の書類を前に、幸が溶けかけたナメクジのような姿勢になっていた。
ちりーん、と風鈴の音。